笠原園花のチアリーディング人生〜後編〜

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韓国帰国後すぐに始めた就職活動

大学4年生の期間は、前編でも記述したように、韓国に留学をしていました。

日本に帰国したのが同学年の皆が卒業する2014年の3月だったので、就活は一個下の学年とともに行いました。卒業式は同学年の友人と参加したけど1人だけ卒業証書もらえず。

就活といっても、これといってやりたいことがなかったため、大企業に行っておけば安泰だろうという就活あるあるな考えで、大企業ばかり受けてました。

少人数セミナーに遅刻したり、説明会をドタキャンしたり……。就職ということに対して、あまり乗り気ではなかったのを覚えています。

とはいえ、「世界の皆が平和になるような社会を作りたい」という思いは幼少期からあり就活当時も変わらなかったので、ITの力で世界の平和を支えるという観点から、三菱電機や富士通など、周りから「絶対その会社そのかに向いてない!」といわれるような大御所ばかり面接を受けていました

しかしまあ、大体1次か2次面接で落ちるんです。

さすがに参ったわたしは高校時代の同期に相談。「そのからしく元気な感じばかり伝わっちゃって、ロジカルに話せていないんじゃない?」と高校の部活の同期にアドバイスもらい、その後は自分を押し殺して、声のトーンを落とし、清楚系女子を装ってました。

その中、NEC(日本電気株式会社)が一番早く合格結果が出たので、そこにて就活終了を決意!

で、その面接の結果がでたのが、韓国帰国してから3ヶ月後の4月6日だったので、学生センターに行って、「2014年卒として卒業させてください!」と頼み込みました。

なぜかというと、もともとは、新卒扱いにするために、半年だけ卒業を伸ばす予定でいたからです。就活のためだけに無駄に長く学校に在籍しなければならず……その半年間の授業料がなんと約50万円

しかし、振込期限が4月中旬までだったので、一か八かまだ入金していなかったのです。50万円あったら海外旅行したい!!!という意地で、学校側に頼み込み、「就活が早期に終わり、入社までの時間を自己の啓発のために有効活用したいため、在学延長を辞退します」という文章を書いて、同学年の皆と同じ2014年3月卒にしてもらいました。

なんと、卒業証明書は2014年5月卒業というレアなものになっています。

入社までの空白の1年間

ということで、入社まで1年空いてしまったのです。

その期間は、大学近くのマクドナルド、原宿のパンケーキ屋さん、派遣の短期バイト、チアのコーチをしながら、ひたすら稼いでは、海外旅行するという1年間を送っていました。念願のアメリカにカナダ、マレーシア、ブルネイ、シンガポール、韓国、台湾、中国、ベトナム、そして、ドバイ……!

そう、この時にドバイに行って、「わたしいつかドバイで働きたい!」って思ってしまったのです。それが入社の2ヶ月前でした。だから、入社のモチベーションがくっと下がり、入社式の日には、「みんな同じスーツ着てこれから日本社会で生きていくのか。これは無理かもな。」という感じでした。

社会人生活このままではいけない

「退勤後に皆で飲み会」が当たり前で、お酒を飲んでお金が消えていく毎日。連日の飲み会で健康的な体が失われていき、週末はやることなくて暇。これはわたしが望む生活じゃない……

やっぱり、趣味程度でいいからチアがやりたい

思ったのが入社2週目の週末でした。

それからすぐに社会人チームに連絡。すぐに入部を決め、これが社会人でもチアを始めたきっかけでした。チアはお遊び程度でできればと思っていたので、ストレスなく、チアという新しい目標ができたので飲み会もほぼ参加しなくなりました。

まさかの入社半年での退職

一方、会社の方は絶不調。目標なし、モチベーションなし、毎朝の満員電車で精神やられ、お客様との会議中も突然睡魔により大爆睡。もうこれはだめだと思い立ち、入社4ヶ月目、8月のお盆休みに転職活動を開始しました。

いつのまにか目標になってた「ドバイで働く」を実現させるため、ピンポイントで「ドバイに駐在できる会社」に絞って転職活動していました。

よく質問されるのですが、転職エージェントには一切登録しませんでした。自分が本当にやりたいことが絞られていたため、自分で行きたい会社を見つけ、突撃的に履歴書を送付。

採用情報は掲載されていませんでしたが、「雇ってください!」って感じで。その会社1つしか面接受けていませんでした。会社を退勤した後に3回面接をし、10月からという条件で入社を受け入れてくださいました。

といことで、たった半年でNEC退社! 「もう辞める新入社員がいるらしいよ」と当時の社内ではすぐ噂が広まりました。上司には「安定した生活を捨てるのか?俺がお前の父親だったら絶対反対するぞ……。」と言われましたが、そういうアドバイスは耳にすら入ってきませんでした。

転職後とチアリーディング

「遊び程度でいいや」と思ってたチアは逆に熱が入ってしまい、いつしか目標が世界大会へ。

そして、新しい会社に入社してからは、平日は目標であるドバイ駐在に向けてせっせと勤務し、休日は目標である世界大会へ向けてせっせとチアに練習をするという充実した毎日を送っていました

新しい会社は、ベンチャー企業で「ドバイで日本製品をプロモーションし販路を広げる」という志を持った会社。日本で半年間、営業の修行をし、数字を達成したらドバイ駐在という条件で入社。

また、入社時には「世界大会を機にチアの現役を引退する」と決意していましたし、会社に宣言もしていました。(これが誤算でした。)

そして4月末、世界大会。「世界大会」というものに参加したのが初めてだったし、有終の美を飾るべく、とにかくミスのない演技して楽しめればいいや! と思っていました。

しかし実際は、自分たちの納得のいく演技ができたにもかかわらず、自分たちより遥か上のレベルをいく海外チームを目の当たりにして、「このままじゃチア人生終われない……」と逆に火がついてしまったのです。(もうほんとうに想定外。)

チアに未練が残るままで向かったドバイ

アメリカでの世界大会を終えて日本に帰国後、すぐにドバイ駐在。

もっとチアしたい……!!

こんな気持ちを抱えたままのドバイ転勤となってしまいました。文化、環境、人々、宗教、街並み……見るものすべてが新しいドバイでの生活はもちろん刺激的で楽しかった
のです。

しかし、チアがしたすぎて、朝涙を流しながら起きたこともありました。

トレーニングは欠かさまいと、奇跡的にドバイに一つだけあった「チアドバイ」というかなりレベルの低いお遊び状態のチームに所属。

日本に残っているチームメイトが練習してるのをインスタグラムなどで見ると、自分だけ置いていかれている感覚で非常に辛い毎日でした。

長期休暇には、ドバイから近い距離にある北欧に行って、チアの強いフィンランドのチームで練習させてもらったりと色々な工夫をしてなんとか気持ちを繋いでいたのですが……。

ある時、ふと「私やっぱりチアがしたい」と思い、それがきっかけで、オーストラリアに行ったのです。

3ヶ月の期限付きで行ったので、2017年5月から7月末までをオーストラリアで過ごし、8月にオーストラリアからドバイに戻った後は、もっと自分の働き方を改革していきたく、同会社で正社員ではなく、契約社員となりました。

ドバイの小学校で体操のコーチをしたり、インターナショナルスクールでチアリーディングチームの立ち上げを行なったり、日本語の先生をしたり、社会人向けに新しいチアのチームを作ったり……自分がやってみたいことをとにかくやりました。

でも実をいうと、どれもこれも、やっていてあまり面白くなくて。本当にやりたいのは「自分のチアの能力を高めること」だったから、違和感だらけでした。

再びのオーストラリア

そんな悶々としていた2018年1月。オーストラリアのコーチから一通のメッセージが。「そのか、オーストラリアのチームとして世界大会でない?

これだ!! 奇跡だ!! もちろん出たい!! もう一度出たかった世界大会!!

この一通のメッセージがきっかけで、私はドバイ生活の全てに終止符を打ち、オーストラリアに向かうことにしたのです。24歳、社会人2年目という未熟な段階で海外勤務という貴重な経験をさせていただいたことにはとても感謝しています。2018年1月28日をもって、ドバイ生活終了!

2年間悶々としていたけど、オーストラリアで「今」やりたいことをできていることが
ほんんんっっっっとうに嬉しい! ということで、私の人生シリーズも終焉です。ありがとうございました。